昨日、旧約聖書を読んでいたら、ちょっと怖かった。儀式のやり方とかめっちゃ細かく決まっていて、しかも、ちゃんと守らないと呪われるよ、みたいなことが書いてある。キリスト教って、もっと優しげで緩やかで、神はいつでもあなたを見守っておられますよ。そんな宗教かと思っていた。どうやら聖書を読むと、優しいだけではないらしい。だって脅してるんだもん。脅しじゃないのかもしれないけど、私は脅しだと感じた。
宗教持ってる国とそうでない国は、根本的に違うなぁって思います。アメリカ大統領は、聖書に手を置いて就任を誓う。日本だったら古事記に手をおいて誓うようなものかな。今の日本人には、その誓いの“重さ”や感覚は理解できない。国として信仰を持っていないから。少なくとも私はきっと、死んでも理解できないと思う。
信仰は人の心を支えるけれど、信仰を持たない人や、違う宗教・宗派の人と、決定的な違いを生んでしまう。自分と自分の宗教に属している人と、そのほかの人との間の明確な線引きが生まれる。違いが生まれるからこそ、人は信仰を持つのかもしれない。信仰でつながる仲間意識や所属している感覚は、個人の意志に従うことを上回る快楽や安心感を、与えてくれるのかもしれない。人が一人で生きていくには、この世は辛すぎると感じた時、人には信仰が、ないしは信仰による所属意識、“あなたは一人ではない”という感覚が必要になる。
世界には割り切れない謎が多すぎる。自分の出自や性別、越えられない壁、理不尽な選択をせざるをえない状況。そもそもなんで人は死ぬのか?とか。なぜ?を受け止めてくれるのが宗教かなって思う。
日本は国家的な信仰が無いけど、ないならないで、なぜ?を受け止める社会的な下地を作ってほしい。宗教教育はタブー視されてるけど、世界にどんな宗教があるかとか、宗教戦争のそれぞれの言い分とか、歴史とか、そういうの、義務教育で教えてほしい。無信仰だからこそ、どんな宗教のことでも平等に教えられる。いろいろ見て勉強して、信仰を持つか、無信仰を貫くか、選択肢があるのが、信仰がない日本の良いところになればいい。そんな信仰の持ち方はタブーって言われるとどうしようもないけど。
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